領地が媒介する形で主従関係を結んでいたのが武士ですから、領地とは無縁の雑兵も中にはいました。
彼らは傭兵ですから、農民や流浪人が務めているのが一般的でした。ですから忠義心は無く、君主に生涯仕えるつもりもなく、盗みを働く者や、敵前逃亡する者は少なくありませんでした。
武将も彼らに期待していたわけではなく、授ける刀も貧弱で質の悪いものでした。「雑兵物語」を読んでも分かるように、刀剣の立派な兵士は武士に限られたのです。
使い捨てと分かっていても傭兵となった彼らの多くは、生活に窮した農民たちでした。戦いに慣れていなくても、生活するためにはやむを得なかったのです。
日本刀の神格化については、時代によってその有様は異なりました。神格化が始まったのは古代で、国史や神道との関連が強い日本刀は、それ以来ずっと崇め奉られました。
江戸時代になると、幕府は一層神格化を推し進めました。戦国時代であれば男は皆帯刀していました。
もちろん刀の質は身分によって異なり、武士は名刀を、庶民は単なる護身具としての刀を所持していました。しかし江戸時代になると、帯刀は武士に限られるようになりました。この影響は、刀の表象にも及びました。
江戸時代に入るまでは「神道」との結びつきだけだったのが、江戸時代以降は「武士道」とも関わり始めたのです。
特に家康と綱吉は、この流れを加速させました。綱吉の治世以降は武士のみの帯刀となり、刀剣に関する作法はより一層格調が求められるようになりました。
家康は剣術に関心を寄せていたことから、流派の達人を重用するなどして、剣術の充実を図ったとされます。